痛い Pain

 

 

痛い Pain

 

影を踏んで歩いた
水が跳ねて笑った
愛の歌も忘れて
めまいだけが残った

幽霊になる
なんで?痛い

息を止めて歩けば
透明な人もわかるよ
消えた声の祈りは
誰かがきっと拾うよ

風景になる
なんで?痛い

萎れた花がゆれる
誰かが羽根を落とした
水面に光が踊る
あなたが遠くに見える
見えるよ

言葉を連呼するとどうなる

ツイッターばかりやってると長文が書けなくなっていやなのでブログを書くようにしようと思っているのだけど、かといって長々と書きたいこともなくて、そうすると散発的に頭に浮かんだものごとをまとめてつなげてストーリーを作ろうとしてしまう。そこで嘘が発生する。これはたぶん、色々と本や論文を読んだり書いたりするうちに身につけた作法だ。物語には強力な力があって、なんらかの物語を想定せずにものごとを理解するのは難しい。理解とは何かということが問題になるけど、それを「情報を圧縮すること」と定義してみたい。物語の骨格から様々なシーンを生成することが、例えば数学で言うと、少数の公理から様々な定理を演繹することに対応する。逆に、物語とは、圧縮された情報であると定義してもいいのかもしれない。情報の圧縮方法は一意的ではなくて、ひとつの現実、ひとまとまりの現象の集合からいくつもの物語を作ることができる。

散発的に生きたい。最近の研究によると、人間は死んだ後しばらく経ってから詩になり、詩が死んだ後また人間として生まれるらしい。生まれ変わるとしたら散文詩がいい。

物理学の研究を気づいたらもうけっこう長いことやってるけど、最近はよく、自分が何をしているのかについて考えている。物理学というのは自然現象を数学に翻訳してみんなと共有する作業で、なぜ数学かというと、数学で書いておけばいつどこの誰が読んでも(地球人ですらなくても)完璧に同じように理解されることが保証されているからだ。頼もしい。ところで理解とは何か。圧縮である、と考えればよさそうだけど、そこからもう一つステップがあるような気もする。よくある研究手法として、自然現象の観測データをなんらかの summary statistics (要約統計量 -- 圧縮!) にして、欲しい情報を取り出しやすいようにしてからそれをモデルと比較し解釈する、ということをする。これはつまり、圧縮されたものをさらに”理解”しようとしているということだ。これはただの二段階の圧縮だろうか。そのような気もする。

数学と比べると、自然言語は取り扱いが難しすぎる。文脈や歴史を背負いすぎている。小説を書こうとして最初に気づくことは、性別を特定せずに人物を描写するのがとても難しいことだ。自然言語のなかには文化とか歴史とかの社会の枠組みみたいなのがそこかしこに組み込まれていて、なので既存の自然言語を使うと思考もそこに引っ張られる。ただ、使う言語(たとえば英語と日本語)によって思考様式が変わるみたいな話をときどき聞くけどあれは大袈裟だと思う。英語は日本語に比べて論理的だ、というようなことを言う人が時々いるけど、自分の感触としては、慣れない言語では文法に沿わない使い方をするのが難しいというだけだ。論理的でないものは自分でも理解するのが大変だから。第一言語が複数ある人はどうなんだろう、その場合はたぶんその人のなかにその人なりの単一の第一言語が構築されてるんじゃないだろうか。そして、第一言語がひとつだけの人も、少なからず独自のものを構築してるんじゃないか。この前ひとから聞いた話では、中国語の世界では時間は上から下に流れ、人は未来に向かって後ろ向きに進むらしい。自分(日本語が第一言語)としては逆だったのでびっくりしたのだけど、恋人(日本語が第一言語)に聞くと時間は上から下だと言っていた。やっぱり、それぞれの言語宇宙がそれぞれの内側にあるように思える。

台湾に住んで生活してるけど台湾の政治のこととかまるでわからない。テレビも新聞も見ないし読まないし同僚ともそういう話をしないからだと思う。テレビをみなければわからないことってきっとたくさんある。来てみるまでわからないこともやはりたくさんあって、台湾の冬は雨が多いので除湿機が必須なのだけど、そんなこと全然知らなかった。でも検索してみると除湿機の購入を勧める日本語の台湾生活ブログなどもたくさん見つかるのだった。そこにあったのに見つけられなかった情報。

生活していて楽なのは街や電車で広告がわずらわしくないことだ。言葉がわからないので広告が無遠慮に脳に直接入ってくることがない。これはドイツでも感じていたな。

ツイッターをあまりやらないようにしている理由は他にもあって、差別的なこととかがなんの前触れもなく飛び込んできて消耗するからだ。ツイッターはもはや一種の生活インフラとなっていて、であるならば、マジョリティ人間としてツイッターの言論空間をまともにしていく責任も感じるのだけど、とはいえ消耗する。といいつつ見てしまう。cakes で「ホームレス」の記事が批判されているのもツイッター経由で見ていろいろ考え込んだ。記事はひどいものだけどなんとなく書き手の気持ちがわかってしまうようにも思えて心がざわついていたのでここにざわつきを書く。いや勝手に想像で気持ちがわかると思っているだけだけど・・・。野宿者支援とか障害者の自立支援とかの社会運動の現場(cakes の記事の書き手は社会運動だと思ってないかもだけど)に行くと、「まずは知ってもらうことが大事」「無関心が最大の敵」みたいなことを言ったり思ったりする。で、どうやって知ってもらうかと考えた時に、「あまり暗くなるのもよくないしポップに楽しく表現しよう」みたいに思うのはたぶん多くの人が通る道で、cakes の記事の書き手にもそういう意図があったんじゃないかなと思う。そしてそれって、私も参加した長居公園でのお祭りなどの活動とそんなに遠くないんじゃないかと思うのだ。いやこれは自分勝手に想像しすぎか・・・?文章があまりにも雑だったことは間違いなくて、そしてその雑さこそが悪いのだろうとは思う。長居の祭りのときも、バンドで音楽をやったりしたけどやってる意味がよくわからなくてもやもやして、それは自分が野宿の当事者やまわりの支援者とろくに話もせず雑に参加したのが悪かったんだといまになって思う。でもさ、あの文章に怒れるなら、もっとみんな夜回りとか参加してよ〜〜〜もっと具体的で直接的な暴力に晒されてるんだが〜〜〜?って思ってしまう・・・が、そういう風に記事への批判を封じようとするのは卑怯だね。記事への批判は、それはそれとしてなされるべきだ。

流れと関係ないけどめちゃいい曲みつけたから貼るね。

 
あと最近は元 The Books の Paul de Jong をよく聴いてる。よい。

youtu.be

 

youtu.be

 

佐藤亜紀「吸血鬼」を読んで知ったのだけど、お祈りの「アーメン」って「そうなりますように」って訳すんだね。とても好きだ。

 

Comptage Mécanique

 
家を出てから電車に乗って職場に着くまでをずっとスマホで録音して、それを折りたたんで重ねたものに、ピアノとか声とか色々乗せてみた。通勤の時はいつも頭のなかでずっとこういう計算をしている(していない)。壊れた機械は愛しい。
いま住んでいる家は道路に面していて常にうるさく録音が難しいので、もう適当でいいやと思って手持ちのイヤホンについてる通話用のマイクで録音してみたら、案外いつもと変わらなかった。それはそれで悲しい。
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ところで、soundcloud の居住地を台湾に変更しようとしたら "Taiwan, Province of China" しか選べなくて嫌な気分になった。これまでにも何度か抗議はされてきているにもかかわらずそのままにされているようだ。
例えば bandcamp は Taiwan を選べるし、Twitter とかだと自由入力なのでこういう問題は発生しないようになっている。soundcloud 好きなので残念・・・。
 

たくさんの、でも有限の

高島鈴さんとワニウェイブさんの会話を読んだ。 http://altslum.com/2020/11/08/c3-01/
それで、

やっぱ基本的に「連絡しやすさ」って権力に対する回路を開く行為なので、整っていてメアドがあって仕事履歴がすぐわかるプロフってめっちゃ権力に把握されるためのものなんですよね。

高島さんがこう言っているのを読んで、ECDの「検索してもそこにはいないよ」って歌詞を思い出したのだけど、どの曲だったかが思い出せず、検索しても見つからず。前にも探したけど見つからなかったんだよなそういえば。

で、ようやく思い出した。Crystal Voyager に収録の Copying Kills Capitalism て曲でした。やっぱECDかっけーってテンション上がったので歌詞を書き起こしてみた。たぶん大体合ってるはず・・・。


Copying Kills Capitalism / ECD

ちゃらちゃらするだけでも命懸け へらへらしてるだけで嫌がらせ
音楽のことで頭がいっぱい デートの約束もすっぽかす
hokus pokus 一発屋フォーカス ヨーデル ロック その次はどう出る
ずるずるとそんな連想ゲーム 現在過去未来ぐるぐると
漂うロンビンソンクルーソー おはようウィルキンソン二枚刃
失敗は失敗 成功の母にならなくて構わない
パワーにならない てんでざまあない 役に立たない 燃やしても有害
癪に触るのは資本主義 コピー文化で締め殺す
ちゃらちゃらするだけでも命懸け へらへらしてるだけで嫌がらせ
煙幕張り巡らしてドロンする 検索してもそこにはいないよ
培養する mother fuckin' 黴菌を撒き散らす 紛らわしいフェイク
本物主義なんか糞食らえ 今度のこいつは頭に悪い
酸性雨を直接皮下注射 アシッドな悪夢に常習者
サイレン鳴らしてくる救急車 未来に止めを刺す No Future

 

ところで、このブログの説明欄には「そこにはいないよ」ではなく「ここにいます」と書いてある。これは The Pastels / Tenniscoats "Song for a Friend" の「ここにいますからね」という歌詞から取っている。Friend は dj klock を指していると思うのだけど、わたしもそのように、もう会えなくなった人とか、遠くにいる人とか、でもどうにか何かのかたちで繋がっていたい人たちに対して、ここにいますと書いたのだと思う。
https://pastelsthe.bandcamp.com/track/song-for-a-friend

 

権力とか社会とか世間とか、なんかよくわからないけど大きいものに対して「そこにはいないよ」と言う一方で、友人や恋人やその他の名前の付かないあなたがたに対しては「ここにいます」と言う。あたりまえだけど、そういうふうに、対象によって態度を使い分けている。その使い分け、公と私の間のレイヤーを、もう少し細かくしていけたら、全てが政治的にならざるを得ない現在を解体できるんじゃないかと思っている。

寝ます。

短歌

コンビニのビニールシート越しに新しいマナーを探り合う手

生きたまま茄子や胡瓜に乗るあなた 半透明の夏が来て行く

なんかもう何一つとしてわからない わかることが何一つとして無い

ファミチキを頬張り歩く太った子 いつか大人になると知りつつ

やっぱさあ なんていうかこう あれだよね やっぱなんかこう あれなんだよね

境界で

台北に引っ越した。まだ家決まってなくてホテルにいるけど。二週間のホテルでの隔離を経てようやく外に出たのが今日の昼、少し足がふらついた。隔離中はほぼベッドでyoutubeとか見てだらだらしてたので先月までの千葉の自宅にいたときと感覚が変わらず、部屋を暗くしてしまうともう本当に自分がどこにいるやらわからなくなった。今日満を持して外に出たら街並みが完全に台湾でびっくりした。

暑さは心配していたほどでもない。出発前の千葉・東京のほうが断然暑かった。ホテルに籠っている間に夏が過ぎ去ったようだ。出発直前の数日は銀座のエアビーに泊まって恋人と美術館に行ったりおしゃれ寿司を食べたり最高の蕎麦(築地・文化人)を食べたりして遊び呆けた。最高だったな。最高だった。

前にも書いたけど夏といえば死の季節で、お盆は言わずもがな、血のように赤い西瓜、花火とかセミとかの儚きもの、怪談話、そういうものが生と死の境界線をぼやかしてくる感覚がある。幽霊の気分になる。

 

幽霊。幽霊にずっと興味がある。

(1) 友人の金子由里奈が幽霊の声をテーマにした映画を撮った。「眠る虫」。好きな映画。もうすぐ劇場公開されるそう!めでたい。

www.youtube.com

(2) 金子さんは以前、映像作品にぼくの作った「Ghost」という曲を使ってくれた。幽霊のつもりで書いた曲。「眠る虫」はバス映画ですが、この作品もバス。バスも電車に比べるとちょっと死っぽい感じがする。知らぬ間に知らぬ場所に着いてしまいそうな感じが。

www.youtube.com

(3) 金子さんと知り合ったのは、soundcloud で金子さんの音楽をたまたま聴いていいなと思ってフォローして、そしたらどうやら金子さんもわたしの曲を聴いてくれたようで、それで Incandescence という曲を映画に使いたいと連絡をもらったのだった。この曲は友達が死んだときに作ったもので、Incendescence = 白熱光というタイトル自体はイーガンの小説から取ったものだけどそれはあんまり関係なく、ただ眩い光に飲まれるような状態を思ったのだった。ガードレールの向こう側、ヘッドライトの向こう側、夜の向こう側にいってしまうような。この曲は「Ghost」と一緒にアルバムとしてまとめた。

soundcloud.com

(4)友人の死をネタにして創作するのって嫌だな。でも惹かれてしまって、そうしてしまった。そうする必要はまったくなかった。追悼ではなかった。死にたくないし誰にも死んで欲しくない。

(5) 二年くらい前、金子さんにはじめて会った。浅草のホッピー通りに行ってそのあと坦々麺を食べた。話すと異常に面白くて創作意欲がめらめらになったのを覚えている。「灯台」という曲を作った。これも死についての曲だけど、死んだ後の曲でもあって、死んでばらばらになって粉々になってそれで地面やそれ以外のあらゆる場所に浸透して、それでも遠くを照らして気高くあれるようにと思って書いた。

soundcloud.com

(6) ばらばらになり、移り変わり、それでも場所として、「地面」として何らかのものである、そういう存在の仕方について考えていた。そのアイディアについてはいまでも全く上手く言語化できないけど、ele-king で始まった高島鈴さんの連載「There are many many alternatives. 道なら腐るほどある」の第一回「現象になりたい」を読んでウワー!これかも!と思った。結びの言葉はこうだ:「みんなでいっせ〜の〜せで腹をくくって、毎秒うつりかわる現象になろうぜ、私も人のこと言えないけど勝手に頑張るからさ」。すごい。そうだ、腹をくくろう。頻繁に挫けるけど。

www.ele-king.net

(7) 去年のいまごろかな、新美術館でボルタンスキーの展示をみてびっくりした。お前は俺か!?と思ったのだった。ボルタンスキーについて全く何も知らずに見に行ったのだけど、この人も死やあの世とこの世の境目をモチーフにしているような人で、それに電球やネオンサインを使ってて、親近感マックスだった。高島さんがボルタンスキー展について連載で取り上げてて、その文章もまたすごくよくて、それで興奮して連載のリンクを金子さんに送った。金子さんもあっという間に高島さんの大ファンになった。

www.ele-king.net

(8) そして金子さんと高島さんは友達になり、高島さんは「眠る虫」について素晴らしい文章を書いた(別に友達にならなくてもきっと高島さんは眠る虫を見てそして素晴らしい文章を書いただろうと思うけど)。嬉しい。高島さんも金子さん、タイプは違うけど、ドデカいものをどうにか引き受けようとする真剣さがほんとに好き。

www.cinra.net

(9) 高島鈴が指摘しているように、生と死・生命と非生命・存在と非存在の境界線の軽やかな越境は金子由里奈の特徴のひとつだ。そしてそれこそが、ぼくが音楽を作り詩を書くときにやりたくてできなかったことだった。ガードレール、波打ち際、白熱光。境界線。

(10) 境界線を越えることはできなくても、境界線に立ち続けることで、生も死も引き受け続けることはできないだろうか?

 

ただ日記を書くつもりだったのに、高島さんの「眠る虫」評が素晴らしくて映画を観たときに受け取った感情をまるごと思い出し、それからふたりがちゃんと出会ったことがうれしくて、長々と思い出話を書いてしまった。「眠る虫」のDVDほしいなー。クラファンもっとしとけばよかった・・・。

台湾でちゃんとやっていけるかな。音楽ができるといいな。