言葉を連呼するとどうなる

ツイッターばかりやってると長文が書けなくなっていやなのでブログを書くようにしようと思っているのだけど、かといって長々と書きたいこともなくて、そうすると散発的に頭に浮かんだものごとをまとめてつなげてストーリーを作ろうとしてしまう。そこで嘘が発生する。これはたぶん、色々と本や論文を読んだり書いたりするうちに身につけた作法だ。物語には強力な力があって、なんらかの物語を想定せずにものごとを理解するのは難しい。理解とは何かということが問題になるけど、それを「情報を圧縮すること」と定義してみたい。物語の骨格から様々なシーンを生成することが、例えば数学で言うと、少数の公理から様々な定理を演繹することに対応する。逆に、物語とは、圧縮された情報であると定義してもいいのかもしれない。情報の圧縮方法は一意的ではなくて、ひとつの現実、ひとまとまりの現象の集合からいくつもの物語を作ることができる。

散発的に生きたい。最近の研究によると、人間は死んだ後しばらく経ってから詩になり、詩が死んだ後また人間として生まれるらしい。生まれ変わるとしたら散文詩がいい。

物理学の研究を気づいたらもうけっこう長いことやってるけど、最近はよく、自分が何をしているのかについて考えている。物理学というのは自然現象を数学に翻訳してみんなと共有する作業で、なぜ数学かというと、数学で書いておけばいつどこの誰が読んでも(地球人ですらなくても)完璧に同じように理解されることが保証されているからだ。頼もしい。ところで理解とは何か。圧縮である、と考えればよさそうだけど、そこからもう一つステップがあるような気もする。よくある研究手法として、自然現象の観測データをなんらかの summary statistics (要約統計量 -- 圧縮!) にして、欲しい情報を取り出しやすいようにしてからそれをモデルと比較し解釈する、ということをする。これはつまり、圧縮されたものをさらに”理解”しようとしているということだ。これはただの二段階の圧縮だろうか。そのような気もする。

数学と比べると、自然言語は取り扱いが難しすぎる。文脈や歴史を背負いすぎている。小説を書こうとして最初に気づくことは、性別を特定せずに人物を描写するのがとても難しいことだ。自然言語のなかには文化とか歴史とかの社会の枠組みみたいなのがそこかしこに組み込まれていて、なので既存の自然言語を使うと思考もそこに引っ張られる。ただ、使う言語(たとえば英語と日本語)によって思考様式が変わるみたいな話をときどき聞くけどあれは大袈裟だと思う。英語は日本語に比べて論理的だ、というようなことを言う人が時々いるけど、自分の感触としては、慣れない言語では文法に沿わない使い方をするのが難しいというだけだ。論理的でないものは自分でも理解するのが大変だから。第一言語が複数ある人はどうなんだろう、その場合はたぶんその人のなかにその人なりの単一の第一言語が構築されてるんじゃないだろうか。そして、第一言語がひとつだけの人も、少なからず独自のものを構築してるんじゃないか。この前ひとから聞いた話では、中国語の世界では時間は上から下に流れ、人は未来に向かって後ろ向きに進むらしい。自分(日本語が第一言語)としては逆だったのでびっくりしたのだけど、恋人(日本語が第一言語)に聞くと時間は上から下だと言っていた。やっぱり、それぞれの言語宇宙がそれぞれの内側にあるように思える。

台湾に住んで生活してるけど台湾の政治のこととかまるでわからない。テレビも新聞も見ないし読まないし同僚ともそういう話をしないからだと思う。テレビをみなければわからないことってきっとたくさんある。来てみるまでわからないこともやはりたくさんあって、台湾の冬は雨が多いので除湿機が必須なのだけど、そんなこと全然知らなかった。でも検索してみると除湿機の購入を勧める日本語の台湾生活ブログなどもたくさん見つかるのだった。そこにあったのに見つけられなかった情報。

生活していて楽なのは街や電車で広告がわずらわしくないことだ。言葉がわからないので広告が無遠慮に脳に直接入ってくることがない。これはドイツでも感じていたな。

ツイッターをあまりやらないようにしている理由は他にもあって、差別的なこととかがなんの前触れもなく飛び込んできて消耗するからだ。ツイッターはもはや一種の生活インフラとなっていて、であるならば、マジョリティ人間としてツイッターの言論空間をまともにしていく責任も感じるのだけど、とはいえ消耗する。といいつつ見てしまう。cakes で「ホームレス」の記事が批判されているのもツイッター経由で見ていろいろ考え込んだ。記事はひどいものだけどなんとなく書き手の気持ちがわかってしまうようにも思えて心がざわついていたのでここにざわつきを書く。いや勝手に想像で気持ちがわかると思っているだけだけど・・・。野宿者支援とか障害者の自立支援とかの社会運動の現場(cakes の記事の書き手は社会運動だと思ってないかもだけど)に行くと、「まずは知ってもらうことが大事」「無関心が最大の敵」みたいなことを言ったり思ったりする。で、どうやって知ってもらうかと考えた時に、「あまり暗くなるのもよくないしポップに楽しく表現しよう」みたいに思うのはたぶん多くの人が通る道で、cakes の記事の書き手にもそういう意図があったんじゃないかなと思う。そしてそれって、私も参加した長居公園でのお祭りなどの活動とそんなに遠くないんじゃないかと思うのだ。いやこれは自分勝手に想像しすぎか・・・?文章があまりにも雑だったことは間違いなくて、そしてその雑さこそが悪いのだろうとは思う。長居の祭りのときも、バンドで音楽をやったりしたけどやってる意味がよくわからなくてもやもやして、それは自分が野宿の当事者やまわりの支援者とろくに話もせず雑に参加したのが悪かったんだといまになって思う。でもさ、あの文章に怒れるなら、もっとみんな夜回りとか参加してよ〜〜〜もっと具体的で直接的な暴力に晒されてるんだが〜〜〜?って思ってしまう・・・が、そういう風に記事への批判を封じようとするのは卑怯だね。記事への批判は、それはそれとしてなされるべきだ。

流れと関係ないけどめちゃいい曲みつけたから貼るね。

 
あと最近は元 The Books の Paul de Jong をよく聴いてる。よい。

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佐藤亜紀「吸血鬼」を読んで知ったのだけど、お祈りの「アーメン」って「そうなりますように」って訳すんだね。とても好きだ。