思い出すことなど

風邪をひいている。

家の中を見回しながら詩と詩でないものをわけようとしてみる。ベッド、ソファー、シャワー、キッチンは全て詩だし、ロボット掃除機も詩かもしれない。自信を持ってこれは詩ではないと言い切れるものがない。家には生活と記憶があるからなんでも詩になってしまう。

京都でいうと鴨川は初めから映画で、そして九年住んだ結果あらゆる通りに思い出があり詩になった。京都のそういう力はとても強力で歩いてるだけで感受性と創造性がガバガバになってしまいトイレに捨てられているマクドナルドのゴミにすら心を揺さぶられてしまう。

吉田寮でいくつかライブを観た。ドラヒップは相変わらず完全にアイドルで、ライブの間だけむーとんとしじょうに完全に恋をしてしまう。わたしたちはいつも早すぎるそして遅すぎる、の振り付けが好きです。天使でひめちゃんが立ち上がるときとか幸太の腹立たしい感じのMCとか丈くんの声と腕の角度に感動したりとかした。懐かしい人に色々会ったりして勝手にフィナーレ感が盛り上がり寂しくなる。長くとどまっていてはいけない場所だと、以前ナンシーが言っていたことを思い出すけど、いつまでもこの場所が残っていて欲しい。ひとがどんどん入れ替わりながら場所だけはあってほしい。ぼくが住んでいたころも寮を潰すとかそういう話があって、そのころに剛平となにかの話をしていたときに、ぼくは「吉田寮がなくなっても新しい場所を作ればいい」って言って揉めたんだけど。そんな簡単なことじゃないって、あたりまえだけど、いまさらわかる。食堂の外でストーブにあたりながら、受付でこたつにあたりながら、昔のようには上手く弾まない会話をしながら、ひたすら寂しくなる。でもこういう寂しさがぼくにとっての吉田寮かもしれない。適当な時間に適当に帰った。

土曜日の昼過ぎにジョンのサンのライブを観る。「ベンチプレス or ベンチ」のレビューをクッキーシーンで読んで即買いしてからずっとファンだけど初めてライブを観た。ハワイの思い出とか高い家具とかの古めの曲もやってくれて嬉しかった。古賀さんが笛的な楽器をたまに吹こうとしてて、なかなか上手く音が出てなかったんだけど、途中で吹口の締め具合を調整したとたん音が出るようになって、その音が素っ頓狂でよかった。観終わったあと胸がいっぱいになってしまってその後の出演者を観ずにすぐ帰った。このひとたちは本当に、街ののりしろに立ってカタストロフィーを喰い止めている最中なのではないかと思った。ジョンのサンにあまりに感動したため翌日に幸福な人生(バンド名)を解散したけどすぐ再結成した。

最近ちょっとライブをしてみたいと思っていて、でもどういうふうにやればいいかわからなかったんだけど、ちょっと思いついた。ぼくともうひとりで、二人ともギターボーカルで、同じ曲を同じ演奏で、結果としてバラバラになる、という感じでやれれば素敵なんじゃないかと思う。と、ジョンのサンを観ながら考えていた。これは幸福な人生とは別でやりたい。

金土日と京都にいて、日曜日はドラサンのライブがあったけどしんどくなって観に行かなかった。ドラサンはノスタルジーが過ぎる。満喫でヒメゴトと岡崎に捧ぐを読んでだらだらしたあと、一時間くらい歩いて紫蔵にいきラーメンを食べた。移転してからは初めていった。京大近くにあったときはレジとかなくて店員さんがお金を直接エプロンのポケットに入れてたんだけど新しい店舗には券売機があって感動した。弟子みたいな人が二人いて、そのひとたちに対して店長が敬語で話してたのがよかった。相変わらず最高に美味しかった。ラーメンは京都が一番レベル高いと思う。

そのあと千本通りをうろうろして、考え事をして、京都駅で花束を探して、特に見つかることもなく、夜行バスに乗って帰った。ノスタルジー感を高めるために夜行バスにしたけど大人なので三列シートにした。最高に快適ですぐ寝てすぐ着いた。

 

あの頃の感情を思い出す。別に死にたかったわけじゃなくて、自分が死んでしまうんじゃないかと怖かったんだと、いまさら理解する。

羅列

たまたまたどり着いた古賀及子さんのブログがあまりに愛らしくて夢中で読んでしまった。いまほとんど恋に落ちている。早く続きが読みたいので早く時間が経って生活が貯まって欲しい。

まばたきをする体

 

コンビニでレシートを受け取るときに勢い余って引きちぎってしまい剛の者みたいになった。なるべく人当たりよく優しい人間でいることを普段から心がけているので大失敗だった。

 

おしゃれしたい期が到来してるんだけど相変わらず似合いそうもない服ばかり好きになってしまう。いまはこの sneeuw のキルティングコートが欲しい。

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しかし仮に似合ったとしても六万円もする。六万円の服は買ったことがない。服以外でも六万円のものって買ったことない気がする。こういう高い買い物をしようとするとき脳内で「一生使うと思えば安い」みたいに囁かれるが自分はものもちがいいほうではないので一生使うわけはない。でも中学生くらいのときにダイエーで二千円くらいで買ったベルトは未だに使っている。クローゼットに入っているコートも三年か四年くらい前から着倒しているものが多い。もしかしたら私はものもちがいいのかもしれない。でもスマホはすぐ壊す。そういえばスマホって大体六万円くらいかな。今はもっと高いか。

 

昨日は職場の歓迎会でカラオケ付きの居酒屋に行った。メンバーがほぼ外国人なので英語の歌を歌わざるを得なくて行く前から緊張していたのだけどけっきょく何歌ったか覚えていない。焼酎を一本飲み尽くしてしまった。新しく来た人が喫煙者で、赴任していらい喫煙仲間を探していたらしく、外で一緒にたばこを吸いながらオースモーキンフレンド!とかいって抱き合った。彼は韓国の人で、BTSの話とかした気がするが覚えていない。韓国といえば Lee Lang という最高の歌手がいるぞ、と伝えておいた。

 

二日酔いでまともに動けず夕方になってやっと回復して近所の蕎麦屋に行く。天丼セットを頼む。衣が異常にカリカリでタレがしっかり染み込んでいるあまり類を見ないタイプの天丼で美味しい。ここの蕎麦屋はサンデーとアフタヌーンがたくさん置いてあり楽しい。

 

電脳コイルをだらだら見たりDJの練習をしてみようとしたりする。そういえば昨日の二次会のお店でお金をちゃんと払っていない気がするので月曜になったら確認すること。

 

親しい人がストレス性の何かになったと聞くとものすごく焦るというか申し訳ない気持ちになったりする。実際には自分にできることはほとんどなかったりそもそも自分と関係ないところでストレスを受けていたりすることが多いので特に責任を感じる必要はないのだけど。こういう感覚はナルシズムの一種かな、と思う。

 

 

重力

気力がないときに気力を振り絞って洗濯機まわすと洗われたものを干す気力が湧かなくて濡れたものを放置してしまい結果として洗濯機まわさないほうがよかったやんけってなるの悲しい。洗濯機を使うことを洗濯機まわすって言うのなんか好き。

 

M1三回戦をちらちら観た。さらばと金属バットが通って嬉しい。マヂカルラブリーすごくよかった。宮下草薙天竺鼠スリムクラブ、Dr ハインリッヒ好き。

 

音楽できるとすぐネットに上げてしまうんだけどほんとはもうちょっと寝かしたり練ったりしてみたい。文章もそうでツイッタよりほんとはブログを書きたい。なんでもない文章を。

 

ガラス窓と網戸の間に閉じ込めた蜂がそろそろ力尽きる。申し訳ないけど怖いので殺す。ごめん。ふと気づいたこと、数年前は虫殺すの平気だったんだけど最近は少しだけ恐ろしい。蟻くらいのサイズでも。蚊はガンガンいける。そのうち蚊も殺せなくなるかな。

 

皮膚科でもらった薬を塗っても肌荒れがなかなか治らない。老いを感じる。

 

パソコンの整理してたら芝居の脚本とか挫折した小説とか出てきた。今と同じようなことを目指しているのがわかる。変わってないことが美しいような、恥ずかしいような。恥ずかしい、誰に対して?

 

あまり喋るほうではないけど頭のなかでは常に会話してて、例えば誰かと話したことを思い出しながら途中で終わった会話の続きとか違った答えをした場合のその後の展開とかが勝手に進行していく。どこまでが本当に話したことでどこからが想像なのかわからなくなる。話し相手がどんな人だったのかもわからなくなってしまいそうで怖い。

 

人をちゃんと見つめていたい。

 

小学生のときに庭で草を焼いていて灰がどんどん空に昇っていくのを見た。どんどん分解されてバラバラになって透明になってどこまでも広がってあらゆる場所に存在して何でもなくなりたかった。勉強してわかったことは火葬されて燃えてもそこまでバラバラにならないし地球の重力からはなかなか逃れられない。でも宇宙膨張が加速し続けたら全部ちゃんとバラバラになる。

わしらスターダストや

11/3 土曜日 遠足で大宮の鉄道博物館に行ったあと浅草でスカイツリーを眺めてそのあと狼に会った。あるいは生き別れた双子に。初対面の親友に。離れ離れの花々に?

でもぼくは花ではない。土、地面、だれかの場所、花の影、芸術にならないもの、詩にはならないもの、メロディにもリズムにもならない、画面に映るけど誰にも見られない、取るに足らない、誰にも響かない、でもそこにある、ただあるもの。

あらゆる人の歌が聴きたい、団地の明かりひとつひとつにいのちが、生活が、歌や詩や踊りがあって、そのひとつひとつを見せてほしい、でも本当に知りたいのは、そこに入れなかったもの、芸術になるときに整えられて削られた何かですらなく、最初から無視されていたもの

あなたの顔の美しさ

担々麺

どもる言葉のリズム

 

この文章に書かれないすべてのこと

すべてのことを愛する決意

を、した、夜

でした

 

試みに、心に、記録として。

 

 

 

 

 

シルトの梯子

グレッグ・イーガン「シルトの梯子」を読んだ。

www.hayakawa-online.co.jp

イーガンの作品で一番好きかもしれない (毎回言っている) 。

 

シルトの梯子っていうのは一般の時空?でベクトルを適当な曲線に沿って平行移動させるやりかたのことなんだけど ( シルトのはしご - Wikipedia ) このベクトルの平行移動を「自分とは何か」という問に対する答え、人生のメタファーとして使っていてそれにしみじみと感動した。

このシルトの梯子の面白いのは、ベクトルを平行移動させている (= 同一性を保つように移動させている) のに、A地点からB地点までどのような経路を取るかによって、A地点で同一だった2つのベクトルがB地点では別のものになりうること。

 

人間の細胞は日々入れ替わっていてある程度時間が経てばかつての自分と物質としてはまったく別物になる。肉体的なことだけじゃなくて考え方も変わるし好きな食べ物や好きな人や住む場所も変わる。そうすると「自分」ってなに?ってことになって不安になる。

小説の主人公チカヤは子供時代に、自分が自分でいつづけられることの保証のなさが怖くなり眠れなくなる。それに対してチカヤの父は、息子を寝かしつけながら次のような話をする。

父が言った。「 おまえが変わるのをやめるときは決して来ないが、それは風の中を漂わなくてはならないということではない。毎日おまえは、それまでのおまえだった人物と、新しく知った事柄とをもとにして、自分がどんな人間になるべきか、好きなように誠実な選択をすることができる。どんなことが起きても、おまえはつねにおまえ自身に忠実でいることができる。だが、いいか、おまえの中にある方位磁針は、ほかのだれとも同じになることはないんだ。その人がおまえの隣でシルトの梯子をのぼりはじめて、途中のあらゆる一歩を隣でのぼっていたのでないなら」

誠実さ、一瞬一瞬の自分に忠実でいること、それが自分を規定する。そしてその自分は、唯一無二のものになる。

 

この考え方が純粋な数学的アイディアから発想されていることそれ自体が、世界と自分を結びつけてくれるような気がして心強くなる。我々の脳と我々の精神や思い出や何かが、実際には少し高度な計算機やその計算結果に過ぎないとしても、それでも気高くあれるような気がしてくる。

 

様々な可能性が重なり合った世界で自分でいつづけること、誠実でいつづけること、新たな故郷を選ぶこと、思い出を持つこと。

そういうことについてつらつら考えながら音楽作った

 

 

測地線

時計台のほうへ行こう
君の町が遠くに見えるよ

頼りないな どうでもいいや
なんだかずっと胸が痛いな

歌うたおう 大きな声で
なんだっていいさ 遠くまで届け

時計台のほうへ行こう
鐘を鳴らして みんなを起こそう

遠くに聞こえるサイレンの音に
かすかに犬の声が混ざって
世界が2つ重なって揺れる
なんだかずっと胸が痛いな

まだ覚えてるよ