エヴァンゲリオン

海外の文学とか映画とかを読んだり観たりするときいつも「これ面白いけど自分は正しく面白がれているのだろうか」みたいな不安がある。例えば作品中にはあらわに描かれてはいないけど登場人物の行動原理のベースにキリスト教がある場合、わたしはキリスト教徒でないので物語を真に理解することはできない、要するに違う文化・違う文脈で生きている人たちのことを真に理解することは絶対にできないのだ・・・とここまで書いて思ったけどそれって別に海外文学とか洋画とかだけじゃなくて日本の文学でも邦画でもなんでも自分と完全に同じ文化文脈で生きてる人っていないわけだからそもそも他人が作った何かを真に理解するなんてことは起こりえない。勝手に受け取って勝手に楽しむしかできない。

 

とはいえざっくりした大きな文化圏ってものはあって、日本にどっぷり浸かっているぼくと例えば生まれも育ちもパリで初恋もパリで仕事もパリみたいな生粋のパリ太郎がフランス映画を観た場合、パリ太郎のほうがより作者の意図と近い感情を得る可能性は高いだろう。でもそれでいいのだ。ぼくには作者の意図を理解できないかもしれないが、パリ太郎だってぼくと同じようにフランス映画を楽しむことは一生できない。つまり私の感情は私だけのものなのだ・・・と、ヤマシタトモコ「違国日記」のマキオさんと同じ結論に辿りつく。

 

でもそれって孤独じゃない?辛くない?寂しくない?誰かと完全に一体化したくない?まぼろしでもいいから???まぼろし~~~~!!!!!

 

ところが孤独じゃない。いや孤独ではあるが寂しくはない。他人と一体化しないからこそ他人は他人だからこそ好きな人の顔を見て肌に触れて楽しくおしゃべりできるのだ。おめでとう!おめでとう!おめでとう!ありがとう!